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恋愛小説

和訳

ハートの花びら 恋愛小説
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朝一番に教室に乗り込む。意気込んでいるわけではなく、これが私のノーマルだ。カバンを降ろし机の上に参考書を取り出そうとしているときに彼が来た。

彼も朝が早い。暑いと言いながら教室の窓を開ける。エアコンがあるにも関わらず、窓を開けてエアコンはかけない。彼は暑いと言いつつ暑いのが好きなのかもしれない。

私の方に近づきそっと手を出す。その手を私がギュッと握る。

誰もいないのでそのまま抱きしめてほしいと思った。女の子は抱きしめたいとは思わないのだろうか。ふとそんな疑問がよぎった。ギュッとしたいとは思うけど、抱きしめたいと言う表現にはならない。私は彼をギュッとしたくて、彼に抱きしめられたい。

私たちは人知れず付き合っている。仮に公言して付き合っていたとしても、人前では抱き合ったりしない。いや、彼なら人前で抱きしめてくれるかもしれない。

少しの間、会話をした。次に遊びに行く予定の確認だ。なかなか日程が合わないので、ひと月先になりそうだが、合う約束ができるのは嬉しい。

「数学聞きたい。」

「いいよ。」

朝の楽しみは短めに終えて勉強する。彼は数学に関してはエキスパートだから何でも答えてくれる。

「x→0のときにsinx/x→1になるのって覚えればいいの?」

「計算だけできればいいんだったら覚えればいいよ。ちゃんと理解したかったら、教科書の証明は覚えちゃって、ロピタルでも成り立つことが分かればいいよ。」

「証明は覚えていいんだ?」

「はさみうちの図形は自分で思いつくには難しいよ。まぁ、ラジアンって単位がありがたいと思うと覚えられる。はさみうちだから線の引き方さえ間違えなければはさめるし。で、ロピタルって何で微分できるか分かるよね?」

「え?分からないよ。そんなこと習わないし。」

「あのねぇ、習うわけないじゃん。先生なんてちゃんと数学を分かってなくて、解き方を教えているだけんだから。あの人たちは答えの出し方を覚えて教えているだけ。ちゃんと数学理解している人なんて先生にはいないよ。」

「じゃあ授業は聞かないの?」

「いや、聞いてるよ。先生が分かってないってことを知るために聞いているし、どうやったら分かりやすくなるかも考えながら聞いてるよ。」

「流石だね。」

「ロピタルは微分係数の計算そのものだよ。今度、先生に『ロピタルの定理は何で微分して良いんですか』って聞いてみたら?その場ですぐに説明できたらちゃんとした先生だよ。」

「忙しいから後でって言われたら?後で教えてくれるかもしれないよ。」

「そういう先生は後で調べてから教えるんだよ。『後で』は、『分かってないから後で調べてから教えます』の略だよ。教える側の人間なら、すべての公式を証明できて普通だから。出来なかったら生徒と変わらない。」

「本当に忙しいときもあるはずだよ。」

「ないとは言わない。忙しいと言うより次の予定が詰まってるってことはあり得る。とりあえず、sinx/x→1については計算以外だと、y=sinxのグラフが0の近傍でy=xに近似しているからグラフで見ると分かりやすいよ。」

その後、sinx=xの解の個数がy=sinx-xとy=sinx/xのどちらのグラフだと解きやすいかとどちらでも解ける説明してもらった。どちらでも解けることが前提でどちらが簡単かを考えてしまうと彼は言っていた。

「おはよう。」

クラスメートの女の子が入ってきた。

「おはよう。空気読んでよね。」

彼が軽口を叩く。隠れて付き合っているのにこんな軽口を叩いたら疑われるよ。

「うちらそういう関係じゃないからね。」

念のため一応否定しておいた。

「ごめんごめん。」

友だちも軽く笑いながら答えてくれているので、疑っていないか興味がないかだ。どちらでも良いと思っている線が濃厚かな。

クラスの子が来たからではなく、聞いた内容を納得しつつ反芻しつつ自分でも確認したくて集中していると、またねと言って彼は出て行ってしまった。

出て行くときにクラスの女の子と話をしていたのを見た。靄がかかった自分を内側に眺め、これが女ごころなのだと自覚した。

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お昼休みは軽く声をかけてお菓子を分けただけで過ぎてしまった。

帰りの時間になって残っているクラスメートに挨拶して教室を後にした。門を過ぎたところで彼に追いついた。彼の帰宅時間は知っている。駅までの帰り道をたわいもない会話で過ごすのだ。

電車の中では勉強はしない。メリハリが大事だから、楽しい時間は楽しむようにしている。駅の図書館で勉強すると言ったら彼はついてきた。たまたま空いていたふたり分の席を陣取り英語の勉強を始めた。

「模試の見直ししないの?」

「無意味だからやらないよ。見直しって意味あるの?」

「できなかったものをやり直してできるようにするの。意味ないかな?」

「やりたいと思ってやる分については意味があると思うよ。やらなきゃいけないと思ってやると意味なくなるかも。」

彼の考えではできなかったものはそこで終わり。試験までに準備できたかが大事と言うことらしい。分からなかったものやできなかったもので、知りたいとか悔しいと思って見直すと心に残るし学べるけど、義務でやっているうちは意味がないと。

「入試の後で合否が気になる以外の理由で入試の見直しするの?」

「分からない。結果が気になるはあると思うけど、それ以外の理由で見直す自信はないなぁ。」

「国語の教科書でさ、伊豆の踊子ってあるじゃん。あれが面白くて川端康成を読みまくった。レモン哀歌を読ん智恵子抄も全部読んだ。結局面白いと感じて自分で読みたいと思って読むようにならないと意味ないんだよ。推薦図書とか読ませるものじゃない。高校3年にもなって名作をある程度は読んでないなら勉強する必要ないよ。ドフトエフスキーに手が出なかった俺はその程度ってこと。」

「一般的な私には遠い世界の話だなぁ。」

彼に薦められた坂口安吾の不連続殺人事件はまだ読んでない。ミステリー好きの彼が薦めるなら読んで見るかと思ったけど、これが日本語なのかと思うほど読みづらい文章でまだ読み始めていなかった。

模試の見直しには苦戦していた。英語の長文なのだがグラフの読み取り問題で各国のGNPが書かれていて国別の説明がなされている。彼は英語をまったく読めないのにある程度は正解していた。理由は簡単で経済はなんとなく分かるからグラフを見て問題の内容と質問が分かったって。英語はまったく訳せてないよと正直に教えてくれた。

大問をひとつ終わらせたところで目を上げると『The Remains of the Day』と言うタイトルが視界に入った。英語の勉強にハリーポッターの原作を読む人はいるけど、恋愛小説を読む人は少ない。彼のチョイスは相変わらずレアだなと思った。

「その本面白いの?」

「全然。難しすぎて読めないし、内容も向いてない。」

「なのに読んでるの?」

「暇つぶし。」

そうか、私の帰りを待ってくれているんだ。彼は暗くなってから私を帰すのを嫌う。それを一度も口に出したことがない。送ってくれる日とくれない日があって気分だと思っていた。あるとき送ってくれないはずだったのに、急遽帰りが遅くなった私が岐路に着こうと帰り支度をしたら、ふいに彼が一緒に帰ると現れたことがあった。それ以来注意深く気にしていたら暗くなってから帰る日は必ず一緒にいてくれることに気づいた。

彼に好きと言いたい。今すぐに。ここでは言えないなぁと彼を見つめていたら、彼が読んでいた本を置いて見つめてきた。

本に目を止めると、本の中では相手を思う言葉が書かれている。これでは日本語でも英語でもストレートすぎる。

「月が綺麗ですね。」

彼の言った意味がすぐには分からなかった。外は見えない。急に何を言っているの?そう思ってもう一度本に目を移して意味が分かった。

「死んでもいいわ。」

ありきたりな返しだが、分かる人には分かるが分からない人には分からない。

私の答えを聞いて彼がほほ笑んだ。気持ちが高ぶり顔を寄せてしまった。言葉では隠して行動で見せつけは意味がない。自分の気持ちを抑え込んだ。

「後でね。」

文豪である夏目漱石と二葉亭四迷のおかげでお互いの気持ちを伝えた私たちは身支度をして図書館を出た。

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エピローグ

駅のスタバで少しトークタイム。ふたり掛けの席で向かい合っている。彼はスタバよりドトール派だけど、熱気が治まらないので構内にあるスタバに入った。彼はチャイティラテ、私はフラペチーノ。

「よく知ってたね。」

「それはお互い様。」

「あなただけのものを死んでもいいわと訳すのはできないな。」

「単語の訳からはかけ離れているもんね。」

「おれの女ってことでいいのかな?」

「いいよ。」

彼のチャイティからシナモンの香りが零れてきた。

「私が死んだらどうする?」

「そんな話はしないよ。ずっと一緒にいたいから。」

「流れで聞いただけだよ。」

「そしたらずっとひとりで良い。今、目の前にいる人が相手だったらね。他の人なら自信ない。」

「結婚する前でも?結婚してすぐだったら?」

「この世から旅立たれたらもう次はないよ。会って話すことができなかったら気持ちを確認できないじゃん。それにこれが最後の恋だと思ってる。」

「もし私が先だったら、好きにしていいんだよ。きっとひとりは寂しいと思うよ。」

「そう言うと思った。だからひとりで良い。そういう相手を思う優しさを持っていることを知っているから裏切れない。義務ではなく、俺がそうしたいの。ずっとお前が好きだって、他の子なんかに気持ちが揺らぐことはないよって。会えなくなってもね。」

「真剣だね。」

私はからかったつもりだった。

「人生かけてるからね。」

彼はいつも笑いながら、いつも真剣だ。少し彼に見とれていた。

「………、しといてよ。」

「え?」

「ずっと一緒にいたいから。そうしといてよ。大事な約束だよ。」

私も彼に人生をかけている。私は裏切らないと思った。それは義務ではなく私の意思だ。

「そろそろ帰る?」

彼に聞かれて時計をみた。かなり遅くなった。

「陛下の御意のままに。」

「どうしたの?」

「私たちふたりだけの国の王様だから、決めてくれていいよ。私はあなたについていく。」

「じゃあ、まずは国民を増やしますか。」

「はぁ?」

「ん?何を想像したの?」

ちょっと顔を赤らめた私は、彼に見透かされた心の内を、当てられる前に話そうか迷った。

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