質問および投稿内容
1
最近ブログを拝見しています。
○○卒の○○高校卒業生ですが、教師時代のブログは2017年以前に所属していた話ですか?
もしそうであれば母校がそのような状況だと知り悲しくなりました。
2
○○卒の高校卒業生です。
ブログの教師時代の話は、17年以前に所属していた高校の話ですか?
3
文系の卒業生です。いつも拝見させていただいています。いつもブログを楽しみにしており、応援しています!
陰で生徒への暴言を吐いていた教員がいたとのことですが、ショックですね。おそらく逆にその教員のことも生徒同士では悪く言っていたと思います笑。
母校での教育は、かなり管理教育が強いものであったと感じていますが、他校でも同じようなものなのでしょうか。また、母校でも学年によって違うものなのでしょうか。
お時間があるときに、回答していただけたら嬉しいです!楽しみに待っています!
理想
理想の学校
回答の前に、私が教員時代に何を思って過ごしていたかを先に書きますね。
良い学校とは
私にとって良い学校とは自分の子どもを入学させたいと思うかどうかなんです。
これは社会人になって良い職場が何であるかの答えにも似ていると思います。良い職場って、自分の大切な人が就職したときに、「良かったね」って言える職場じゃないかな?逆に「そこに就職しちゃったかぁ」って思うような職場って嫌な職場ですよね?自分の友人・恋人・家族が就職したときにやったじゃんって言える職場ですか?これ大事なことです。
それと同じで、良い学校って自分の子どもを入学させたいかどうかなんです。この学校だけは絶対入学させてはならんと思った学校って良い学校ではないですよね。
もちろん、価値観や学力を省いてですよ。それ以外の面で考えて入学させたいかどうかです。
価値観や学力まで含めて入学させたいか?になってしまうとかなり当てはまらなくなりますからね。私の場合は子どもに自由にさせてくれる方が好きだし、子どもの気持ちを尊重したいし、子どもが自主的に動いてくれる方が好みだから、縛り付けるやり方は元々好きではないです。だからと言ってそれがすべて間違いだとは思いません。人によってはある程度方向を決めてあげることも大事だと思います。何にせよ両極端は駄目ですよ。自由と言って無秩序になってもいけないし、管理すると言ってロボットを作るように管理しては駄目なんですよ。学力が外れているのも良くないですし。
そう言った意味で、それぞれの学校の特性や校風はあったとして、自分の子どもを入学させたいと思える学校かどうかです。
もし、自分の子どもは絶対に通わせたくないって思う学校なら、少しは変えていきたいじゃん。心の中で「この子たち可哀そう」なんて思いながら過ごすの嫌じゃないですか?
これは結局20年間変わらなかったなぁ。
学校が居場所であること
家や職場・学校って居場所なんだよねぇ。
家って家族が居て良い場所だし、職場は職員が居て良い場所。だから学校は生徒が居て良い場所なんだよ。
学校ってのがみんなにとって心地よい居場所であることが理想だったの。
居場所を奪うってことがよくあるんだよ。家庭でも家族喧嘩して(一時的に)家から出ていっちゃうってなったら、その時間って家が居場所ではなくなっているってこと。これが一時的な話なら良いのだけれど、恒常的に居場所でなくなったら嫌じゃないですか?
職場でも暴力的だったり、威圧的だったり、そんな状況で職場に居られなくなくなったら居場所ではないですね。
生徒にとって学校という居場所を心地よくいられる居場所にしておくことをずっと考えていたなぁ。
この学校が生徒の居場所って、私が高校時代から思ってたことなの。まだ教員を目指してもいない、ただなんとなく毎日を楽しく(好き勝手に?)過ごしてた高校時代から思っていたことなの。
学校って授業を受けるための場所なんだよ。それ以外におまけがいっぱいあるだけで。だから、元気に楽しく授業が聞ければまずはOKなんだよ。そこがスタートラインなんだから。でも、おまけの方に力を入れて、本来居場所であるものがなくなっていくのを見るのは悲しかったなぁ。
学校以外に居場所を見つけて、旅立って行くのは全然良かったよ。家庭が原因で学校が居場所にならない、友人関係が原因で学校が居場所にならない、こういったときは何とか力になれたらと思うよ。でも、学校が原因で学校が居場所にならないって辛いね。高校だから成績で進級できないとかは仕方がないけど、成績を盾にして居場所を奪うのは違うと思うし、無理な課題を押し付けて不登校に追い込むのは間違いだよねぇ。全然救う気がないのは見てられない。
でも、保護者が原因のときや、自分のクラス以外のことってすごく無力なんだよ。だって何もしてあげられないもん。もめるの前提でこっそり助けますけどね。たぶん見て見ぬ振りができたら、見捨てることに心痛まなかったら、学校と言う場所に馴染めたのかもしれないけれど。皮肉だなぁ。
そしてね、居場所がなくなるって辛いことだよ。
不登校とかで学校辞めちゃうのも悲しいけど、生きることをやめちゃうのはもっと辛いことだよ。
この世界から居場所がなくなるって辛いことだよ。
10代の死因の1位2位知ってますか?
私が関わる子たちだけでも絶対に守りたいって思っていました。ただの自己満足だとしても。
いろいろ見てきたけど、居場所がなくなったことに対して検証や反省や見直しをするってこと一度もなかったよ。だってそんことしたら今までのやり方を変えなきゃいけないじゃん。少しでも良いから自分たちが何をしたか振り返っても良いのではないかなと思う。そのことに関しては今でも不満。
理想の教員
何もしない教員
私にとって理想の教師像ってのがあるけど、一言で言うと「何もしない教員」であること。
これだけだと絶対誤解するので最後まで読んでね!
まずね、何もしないってのが教員を傍から見たらそう見えますって意味であって、本当何もしないわけではないんだよ。
子供たちが主体的に、自主的に動いて教員が何もする必要がない状態に持って行けるってこと。宿題や課題を渡さなくても、自ら興味や関心を持っていろんなことを調べたり、勉強したり、新しいことにチャレンジしてくれれば何も言うことないじゃん。
そういった状態に持って行けるってことが理想なの。
でも、これってすごいレベルの高い技術を要求されるし、外から見ただけで中身を考えることができない大人は”あいつ働いてない”って批判するのよ。自分が優秀だと誤解している人ほど批判してくるのよ。だからすごいめんどくさい。
ほとんどの先生はむりやり押し付けて自分が立派なことやりましたって言っているだけだから。
何もしない教員になるためには非常に厳しい道が待っているんだよ。子供たちが自分で何になりたいか、何をしたいのか気づくようにしないといけないし、何をすれば目的に近づけるのか方法を考えたり調べたりできないといけないし、失敗してもめげずに違う方法を試したり繰り返しチャレンジするメンタルが必要だし。これを教え込まずにできるようにするって相当な力量が必要なんだよ。
何でもかんでもこれが正解ですって答えを渡す方が楽でいいよね。しかも、なぜか批判されないし。
私利私欲のために過ごすこと
私、「生徒のため、子供のため」って言葉が大嫌いなの。だってこれ言う人ってほとんど嘘だもん。自分の都合のために周りを黙らせるにはこう言うのが一番効果的だから言っているだけで、すべてこれを言った大人のためでしかないから。
これに関しては、教員も保護者も同じ。
子供のためって、子供の話を聞き子供の気持ちに寄り添えるかってことが大事なのに、形式的に聞くだけ聞いて結論ありきで否定して終わったり、そもそも子供から本音を話してすらもらえない大人が大多数いるわけじゃん。
だから、「生徒のため、子供のため」って言葉が大嫌いなの。教育委員会や校長教頭なんかはこの言葉が大好きみたいですけどね。理不尽なことを要求するときは必ず言うから。
中には保護者でも「子供のため」って言いながら自分のためって場合も多いよ。親のプライドや世間体、その他いろいろね。
だから俺はいつも自分のため、自分の気持ちを満たすためって自分に言い聞かせてる。
子供たちが笑ってくれたら、俺が嬉しいから
子供たちが幸せを感じてくれたら、俺も幸せだから
子供たちが泣いたり苦しんでいたら、俺が辛いから
すべては俺が嬉しいと思えるように、幸せと思えるように、楽しいと思えるように、悲しい思いをしないように、辛い思いをしないように
子供たちのためではなく、子供たちがどう思ってその結果俺がどう思うか、そのためにです。
子供たちのためって言いながら、当の本人たちが嫌がっていたら本当は誰のためですか?ってなるじゃん。
だから俺は自分のために、みんなに笑っていてほしいし、幸せになってほしいわけよ。
(まぁついでに自分も幸せになりたいけど)
補足
例え話1
子どもが幼稚園に通っていたときの話になるけど、すごい優秀な先生がひとりいたの。お遊戯会ではそのクラスだけ衣装のレベルが違うし、運動会では優勝しちゃうの。だから保護者はその先生のクラスに当たりたいって口をそろえて言うんだけど・・・
私はその先生になったらラッキーくらいには思うけど、別に他の先生でも良いのです。だって、その先生が子供の扱いが上手と言うだけで、子供が成長するかは別物だから。もしかしたら他のクラスで自分でいろいろ考えて失敗した方が成長するかもしれないじゃん。もしかしたら、そのクラスにいると先生の言うことを聞いていれば大丈夫って思って自分では考えない子供に育つかもしれない。だから、どちらが良いかは分からないってこと。
必ずしも手出しすることが正しいわけではないのよ。
でもなぜか、中学高校って大量に宿題や課題を押し付ける先生が一生懸命働いていると評価されたりするわけで、そうすることで今では社会人になって初めて何もできないことに気づく人もいるんですよ。
ひと昔前は、
小学校←こうしなさい!
中学校←こうしなさい!
高校←こうしなさい!
大学←自分で考えなさい! で、え?っなって
社会人←自分で考えなさい! を何とかできていた。
現在は、
小学校←こうしなさい!
中学校←こうしなさい!
高校←こうしなさい!
大学←こうしなさい!
社会人←自分で考えなさい! で、初めて自分が何もできないことに気づく。
例え話2
教育って難しくて、すべての成長が目に見えるわけではないんですよ。でも、目に見える部分だけを評価する大人が多すぎるんだよね。
例えば、本を読んだら賢くなるか?
どう思ういます?賢くなりますか?
これ一部の学校では朝の読書が良いからってみんなで本を読ませている学校もあるけど、一部の子供には良い影響があり、一部の子供には悪い影響がでます。
(これと同じで朝の学習は効果的といって取り組んでいるところも同じで、一部の子供には効果が出るけど、一部の子供にはマイナスにしかならない。そもそも同じことをすれば同じ効果があると思っているところが間違いなのにね。)
本を読んで賢くなるには、
1 文字が読めること
2 言葉の意味が分かること
3 内容に共感できること
の3つが必要なんだけど、3つめの内容に共感できることって目で見て分かるものではないんだよね。だから、1つ目と2つ目の文字が読めることと言葉の意味が分かることしか目がいかない人が多いんだよ。学校でも3つ目の共感できることって教えてくれなし、教えられる先生もほとんどいないのよ。
小学生に「お寿司を食べているとき、親がおいしそうに食べている緑の塊を見つけた。きっと内緒の御馳走だと思ってこっそり口に運んだが、すぐに泣き出してしまった。」って文章を読ませたら共感できるだろうか?
これを共感するには経験が必要なの。もちろん、山葵を食べて泣く泣く吐き出したことがあればすぐに気づくと思うが、生姜でも何でも良いので、薬味の中にはすごい味がするものがあるって知ってないと読んだところで理解はできないの。
この経験から共感できることって多いのに、なぜか経験することを大人は否定するし、高校生になると分かるわけないのに分かるでしょ!で終わらせてしまう先生も多いんだよ。
本の中にはいろんな経験に基づく行動や心理描写があるけど経験したことがないものなんて読んでも分かるわけないんだよ。
だから、本を読んで賢くなる子供って、文字が読めて、言葉の意味が分かって、内容に共感できる子だけなんだよ。それ以外の子供は文字を追っているだけで賢くはならない。これは漢字の読み書きができたとしても賢くはならない。
だから小学校や中学校で読書タイムなんてやっている学校は、フォローしてあげないと本が嫌いな子供を量産するだけなんだよね。
ついでに言うと、数学も
1 問題の与えられた状況(条件)と求められているものが分かる
2 求めるために何をすれば良いか分かる
3 求めるための計算ができる
に分かれていて、ほんとどの学校や教員が3つ目の計算ができるしか教えないんだよね。考えなくても解けるように、この問題はこう解くのって教えて計算させているだけ。
先生でも何をすれば求まるかは知っているけど、なんでその求め方なのかまでは分かっていないから、これも正しく教えれる先生がいないのが痛いところだね。
じゃあなんで読書タイムなんてものを学校が作ってしまうかと言うと、先生(人間)って上手くいったことことしか記憶に残らないからなの。読書しても賢くならない子たちは記憶に残らないの。成功例だけ記憶にも記録にも残るから、そうではない子たちにはどうアプローチするかって話にならないの。
高校なんかだと名ばかりの進学校だと大量に宿題や課題を出すじゃん。それってそれで上手くいったことがあるって記憶と記録を元に、これが正しいのって押し付けるからなの。だって合わない子供のことは記憶に残らないから。
上手くいったらなぜ上手くいったのか、上手くいかなかったらなぜ上手くいかなかったのか。これを考える力が先生たちにはないからね。悩んだり苦しんでいる子たちには何をしてあげられるかって考えてくれたら良いのにね。
例え話3
ちょっと学校ってところの異常さを例え話でしますね。
この前動物園に行ったんだけど、ふと思ったんだよね。学校だったらきっとこんなことが起きるだろうなって。
大人になると苦手な生き物ってできたりするじゃん。まぁ見たくないわけですよ。これ見たくないから動物園からなくしててっていったらなくなりますか?
これが学校って世界だと、一人がなくしててっていったからなくしちゃうことってあるんですよ。理由は子供が傷ついているから可哀そう。そして、全員が見るわけではないなら平等ではない。
学校っておかしなところなんですよ。普通に考えれば見たくないものは見なければ良いでおしまいでしょ?でもね、平等や子供のためって謎の呪文によっておかしなことが起こるんですよ。
ついでに言うと、動物園が1日500円だとして、半日で帰るとするじゃん。でも、一日いても500円で半日でも500円だと損した気分になるじゃん。このときに不公平だと言ったらどうなりますか?
まぁ動物園は変わらないかもしれないけれど、学校って異常な世界だと違うんですよ。
半日なら250円にしようかな?ならまだマシです。1時間で帰る人もいるかもしれないし、平等って難しいよね?じゃあ、閉園まで帰さなければ良いんではないか?になるんですよ。途中帰宅禁止。これなら平等でしょ?
これが学校の言う平等なんです。だからなんで全員じゃなきゃダメなんだ?って意味不明なのに強制されていること多くないですか?これが学校言う平等なの。
質問の回答
回答
まとめて回答しますね。
応援ありがとうございます。そういう一言が嬉しいです。
2017年以前の話ですよ。だってそれまでしか教員やってないし。それまでにいくつかの学校を見てきたけど、おおむね県内の県立高校は似たような部分はありますよ。程度問題でここまで酷いことあるの?って思うこともあれば、この地域だとこんなものかと諦めておしまいのこともあります。一言で管理教育と言っても、常軌を逸しているレベルから地域の特色ですねのレベルまで様々です。
読んで悲しくなるのは申し訳ないけど、本当に酷い話や公開できないレベルの内容は書かないから安心してください。まぁ嫌なら読まないのが一番ですね。
誰が見ても酷い先生ってのはいるけど、良い先生だけど生徒からでは判断できないこともあれば、ものすごい酷い先生で好かれている先生もいるので何とも言えないです。酷いの内容が表向きには伝わらないこともあるんですよ。逆に良さが伝わらないこともあるし。
(個人の見解ですが)ひとつ言えるのは、自分の子どもを入学させることはないですね。だって子供たちの人生も命も軽んじている学校なので、自分の子どもを預けることはないですね。実際働いている教員のほとんどが自分の子供だけは入学させないって思っているんじゃないですかね?これは推測ですけど。
いまだに校長が退職したことをホームページに書けないような学校なので、このまま来年は残った教頭を転勤させてホームページもリニューアルして何もなかったことにするんじゃないですかね?いなくなったので分かりませんって。自分たちが何をしたか分かっているのかね?聞けるチャンスがあれば校長は定年退職なのか?って聞いてみてください。
反対意見を言う人も消えたし、年々悪化していくのは目に見えています。と言うか、まだいるときでも本当に目に見えて年々酷くなっていった。
楽したい先生ばかりが残って、ついにカリキュラムを改正しましたね。国公立の合格数を伸ばしたいから私立希望の子を教えたくないって各教科が押し付け合いして、私立向けのコースを潰すように画策して、ついにカリキュラムの改正です。来年には旧カリキュラムも表示しなくて良いから、ホッとしているじゃないですか?とりあえず国公立を受けさせて合格数さえ増えれば良いと思っているんですかね?この新型コロナウィルスの状況をチャンスだと思っているかもしれませんね。地方はコロナの影響が少なくて安全とか言ってそうで怖い。地方だと医療体制がどれくらい整っているか分からないし、帰省できるかどうかも分からないし、分からないことが多いだけにリスクも大きいのにね。
ちゃんとした育て方をすれば近隣の国公立で100人は受かりそうなポテンシャルはあるんですけどね。入学段階では。それを自分で考えたりさせずに、言うことに従うようにだけ教え込むから伸びないね。
私が3年間持ち上がった学年はかなりマシでしたよ。私ともうひとり意見を言う先生がいたから、ちゃんとまともな学年だったと思うけど。(もうひとりの意見を言う人は、学校がおかしくなってきたって言って早々に転勤しました。そろそろこの学校ヤバいから転勤するって。)
一つだけ具体的に書くと、課題の量は調整したよ。他の学年だと教科によって無意味な課題が3割から5割くらいあるんだけど、この学年は2割から3割くらいに抑えられたし。はぎ取り式ってあったじゃん。あれ、他の学年のとある先生が勉強できない奴にこれ買わさせてやらせときたいって言って始まったんだけど。一部に買わせると反発があるかもしれないって学年全員に買わさせて全員にやらしたんだよ。買ったのに課題にしなかったら問題になるって。だから、はぎ取り式って本当はごく一部の人用(20人くらい)に買うはずだったのに、面倒臭いからって全員に買わさせて全員やらせてたの。で、自分の学年も前の学年が買ったから買うって言った先生がいて、それは根本的におかしいって話をして、課題はレベルに応じて選択性にしたのと、自分以外の教科の課題の量を知ってないと一度に膨大な量を出しているかもしれないから、他の教科には口挟まないけど、どれだけの課題を出したかはお互い確認しましょうってことにしてもらった。他にもいろいろあるけど、けっこう大変だった。
あとなんであんなに課題が多いかって言うと、大きく2つあって、
1つ目は他教科を牽制するためね。どこかの教科がたくさん課題を出して、その教科ばかり勉強して成績が上がったとするじゃん。そうすると、他の教科は何してたの?って言われるわけよ。こうならないためにお互い他の教科が勉強できないほどの課題を出すのよ。まぁ子供たちにはたまったものじゃないけどね。別に成績を伸ばしてあげようとかそんな意図があるわけでもなく、ただ教員同士が牽制し合うために膨大な課題が出てるんだから。
もう1つは、保護者からのクレームを減らすためね。意味がない課題でも大量に出しておくと、成績が上がらない子の保護者に「課題が出ていませんねぇ。」とか「課題は出しているけど写すだけですねぇ」とか成績が上がらないのを子供の責任にできるじゃん。課題をやっていないって言われると保護者も文句言わなくなるんだよね。子供に課題をやりなさいって言うようになるかもしれないけれど。これ課題を出さずに成績が高い子供の保護者には「課題に取り組めばもっと成績があがります」って言うんだよ。課題と成績には相関関係がないのに何言ってんだか。ちゃんとした教え方をすれば課題なんてなくても成績なんて上がるのにね。何やってるんでしょうね。正しい教え方をすると課題を出さなくても自分で勉強するようになるんだよ。
おまけだけど、はぎ取り式みたいに一部の生徒のための課題を面倒臭いからって全員にやらせることもひとつの理由ね。これけっこう酷い話で、一部の生徒用に問題を作るって意外と簡単なんだよ。今時、問題をクリックして実行ボタンを押すだけで宿題用のプリントってできるんだよ。それすら面倒臭いってどれだけサボりたいの?って感じ。しかも当然お金は家庭に負担させて、やる必要のない生徒にもやらせて、教員が楽するために子供や保護者に負担を強いるやり方は賛成できないね。しかも、例え話2の所で書いたけど、計算の練習しても数学ができるようにはならないのに。ちゃんと教えましたアピールのためだけに問題集を買わせて教えもせずやってこいしか言わないんだから。本当に酷い話。
まぁそんなわけで、いろいろあるけど、入学を考えている人がいたら止めたいところです。
入学に向いているのは、絶対条件として、私立を希望していないこと。これだけは絶対です。私立希望が少しでもあるなら入学しない方が良いです。国公立希望だけど、落ちたら私立って人も避けた方が良いです。マイナス要素が大きすぎます。
後は、”かなり成績が良くて、国公立志望だけど明確なこだわりがなくて、自分で考えるのが嫌で言われたことだけやっていたい人”か、”学校の課題をこなせて、進学には塾を利用する人”のどちらかかな。旧帝大以上を目指すんなら塾は必須で、学校の勉強で成績が上がる人はほとんどいないので、近隣の国立なら学校の勉強だけで入れるかもしれないけれど、難関校になると無理だと思ってください。ただ、塾に通うには学校の課題が足枷になるのでよーく考えて入学してくださいね。
分かった上で入学するなら良い学校になると思いますよ。
補足
ちょっとみなさんが、教員は教員免許を持っていて専門知識があるかのように誤解していると思うので説明しますね。
現在60代までの人たちだと教員って魅力のない職業だったの。そもそも教員免許だって大学を卒業すればおまけでたくさんの教科の免許が申請さえすればもらえたの。数学しか専攻してないのに物理や化学の免許ももらえるってことね。で、民間に就職できない人が教員でもやろうかなってなるのが教員だったの。この頃は民間の方が魅力があったの。
で、この雰囲気の名残がある世代が今のベテラン勢だと言うことね。管理職になっていたりするわけなのよ。これが非常に問題なの。なっちゃいけない人が校長や教頭になるってすごい問題なんだよ。
で、45歳から±1~2年の人が超氷河期世代でこの年代に向かって、教員の人気が高くなるのね。安定してるってことで。ただ、熱意があって教員になりたい人より、安定しているから教員になるってひとも増えてくるの。この45歳±1~2年の人たちは単純に優秀なんてレベルではなくて、桁が違う倍率を潜り抜けてるか、なんか理由がないと受からない人たちなの。
逆に今は簡単に教員になれちゃう。倍率も低いし、世代の人口も少ないし、大学も入学しやすい全入に向かって超易化するの。正直まともに授業できないレベルの人も採用されています。
教員免許だけど、45歳前後の年代は大学に入学することすら困難で教員免許を持てる学部もまだ限られていたから、教員免許にも価値があるんだけど、35歳以下になると教員免許に(まったくではないけど)価値はなくて、所詮は講習資格のひとつなの。大学が学生を集めるために資格を取れますよって宣伝するのにうってつけの免許なの。身近だし、試験がないから講義を受けていれば発行できてしまうから。だからFランク大学だって教員免許を取れますってうたい文句が言えるし、講義だって受けてさえくれれば免許を進呈です。今では成績で落とすとちゃんと講義をしているのかとか苦情がでるから不認定ってあんまりしないんだよね。教育実習ですら余程態度が不良でない限りは悪い成績をつけてはいけないってお達しが来るのよ。採用試験に影響するから母校の卒業生には良い成績をつけなさいって。こんなやり方で良い人材が集まるわけないじゃん。
んでね、政治でもそうだけど、多数決って平等だと勘違いしている人が大勢いるけど、政治だと世代人口が偏っているから若い世代の人は投票しても団塊世代に負けちゃうじゃん。それと同じで、教員ってもともと優秀な人の方が遥かに少ない世界なの。だから、良くわかないから誰かの真似したり言いなりになってしまう人の方が多いし、公務員だと何もしないのが一番楽なの。だって何もしなければミスしないから苦情がでないでしょ?自分で考えて行動したら自分が責任を負うけど、何もしないって責任を負わなくて良いんだよ。
そう言う理由もあって改善は難しいし、自分たちで何とかしようとする人もほとんどいないんですよ。
だから学校の先生は立派で優秀なんて思わないでね。今では教員免許なんてあってもなくても変わらないくらい意味のない資格なの。逆に免許がなくても優秀な人もいるから、塾の講師だと教員免許を持っていないカリスマ講師がいるかもしれませんね。
質問・感想をお待ちしています!
質問でも感想でも送ってもらえると嬉しいです。
質問の回答や感想に対するコメントはブログでお答えしますね!
【お問い合わせページ】
【質問箱】
【マシュマロ】
コメント