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教育・育児・不登校

教えのプロor学びのプロ

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教育のとらえ方

教育とは教えると育むを組み合わせた言葉です。しかし残念ながら現在では教育とは教えることのみに偏ってしまっているのが現実です。育むとは自ら学ぶと言うことです。自ら学ぶには教える側が待つ必要があります。しかし、待てない大人が多すぎ、また待たずに教えることを評価する若しくは要望する大人が多すぎて現在の教育では育むことがなくなってしまいました。学習とういう言葉の本来の意味を考えると学校で行っているものは学習とは呼べなくなっている。(学習の意味に勉強することが含まれているが、これを含まず学習を本来の意味で考えるということです。)

日本の学校を見ると、幼少までは育むと言うことに重きを置いているのに対し、中高では全く育まず教えることにのみ特化した教育を行っている。その結果、大学で学ぶ姿勢を持たない学生が溢れかえっている。なぜ中高でこれほどまでに育む姿勢を失ってしまったか。

中高では(特に高校では)受験というものにとらわれすぎて、合格数が学校の評価になっていると錯覚していることが大きな要因である。受験の合格数をあげることに必死になっている学校および教員は、いかに自分たちが思考の停止状態にあるかを改めて認識する必要がある。子供にとっての幸せが何かを考えることなく合格=幸せという安易な錯覚を受け入れて妄信してしまうほど危ないものはない。これは学校だけでなく保護者も同じ。

特に大学受験に関していえば、合格数だけでなく、不合格数(受験者数)も合わせて公表することが望ましい。単純に合格数を上げたければ、私立であれば(受験費用の負担増を気にせず)受験回数を増やせば良いし、国公立であれば(本人や各家庭の意思に関わらず)挑戦せずに受かりやすい大学を受験すればよい。国公立の合格率が異常に高ければ、希望するところではなく受かりやすいところを受けている可能性がある。

自宅から離れて下宿したくて、家を出るなら国公立しかダメと言われていれば地方でも良いから国公立に行きたいって明確な意味を見つけることができる。そのようにはっきりした理由もないのに、地方の国公立大学や、私立から経営悪化や学生が集まらないという理由で公立に転嫁した大学を勧められても絶対受けないな。特に地方の国公立を合格しやすいように生徒を振り分けて受けさせる方法には疑問です。各個人の将来ではなく合格数を伸ばすためにどの地方に行かせるかを振り分けるってことに心が痛まないのか不思議でしょうがない。

ちなみに都心には都心の良さが、地方には地方の良さが、国公立には国公立の良さが、私立には私立の良さがあるから、自分が希望するところを受ければ良いよ。自分の場合は勉強したいことがあったから、国立の前期を途中で帰宅し、(出願したけど)後期は受けに行かなかった。自分が学びたいこと(やりたいこと、将来の希望職種など)が優先されないと後悔する。学歴が重要とかって言うけど、なんで学びたくもないところを受ける必要があるのか。

すでに7年前から成績が最底辺の高校から国立は合格するようになっていることや、センター試験が様々な問題を抱えていること、大学受験が高校の内容からはみ出さなくなったことの問題については別の機会に触れますね。

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教えのプロ

基本的に現在の学校では先生は教えのプロ(を目指している人)です。

すでにとある地域では質が下がらないように定員内不合格を出して、教員の質を維持している状態ですが、その分人が不足して現場は限界みたいですね。ここまでいかなくても教育の質の低下は避けられず学ばすなんて高等技術以前に教えることすらままならないのが現状です。各地域で教員の取り合いが始まっている事実は見過ごせないですね。

教えのプロと書きましたが、学校が教育機関として機能しなくなっている現状があるのは事実です。ひとつに世間が受験を妄信しているところにあります。

学校で言うところの進路指導は塾や模試に左右されていて、模試の判定で進路指導をしていますが、そもそも学校が個々の力を把握しておらず、すべて塾と模試に頼り切っていることは問題です。中には強制的に模試を受けさせ当然のように家庭に費用を負担させている学校がありますが、自分たちで個々の力を測ることができず、家庭負担で模試を受けさせ情報を入手する方法で良いのかと言うことです。さらに教材ですら自分たちで作らず、市販の教材を買わせ、テストもコピペで済ます風潮があります。

テストの問題を自分で作り、その結果を分析して進路指導をすることは昔は当たり前でした。しかし、現在では教材、テスト問題、進路指導、生活指導のすべてを外部委託している学校があります。何が問題かと言うと本来学校の授業料だけで済む費用が、すべて家庭負担になっていること。実際に教育を動かしているのが教育業者であって学校ではないことです。あなたの学校はどうですか、必要だからと民間企業の学習アンケートや学習調査をしていませんか?模試の結果のみで進路指導をされていませんか?受けなければいけないと(模試などの)外部試験を強要されていませんか?

学校が自分たちがやるべきことを外部に委託するために家庭が費用を負担することをどう思いますか。皆さんが想像するよりはるかにお金がかかってますよ。実際確認してみてはどうでしょうか。お金はいくらでも払うからすべてお任せしますならいいと思いますが、学校ごとの費用を虚偽記載なしで公表したらすごいことになりそうですね。

教えのプロとは、本来何を教えるべきかを自分で考え作ることを放棄した、入試問題をいかに解くかを教えるだけの人と言う意味です。学問の内容を学ばすことができず、問題の解き方だけを教えてしまう人のことです。

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学びのプロ

最初に誤解がないように書きますが、問題を配り何も教えず、最後に答えを配る(または黒板に書く)だけを生徒が自主的に学んでいるなんてとんでもないこと言う人がいますが、これは仕事をしていないだけで、学ぶとはまったく関係ありません。問題を配っている段階で自主的に学んでいるとは言えません。

今ではほとんどいなくなりましたが、教員というのは学びを教えるものです。学ぶとは自発的である部分が大きいですね。学ぶ姿勢を作るからこそ大人になったときに自ら物事を考え打開していく力を発揮できるものです。

最も良い教師とは何も教えず、ただそこにいるだけで子供たちが自ら学び成長していく教師です。教えたがりでとにかく知識を披露してしまう教師より、教える目的を理解せずただ答えの出し方を教えてしまう教師より、はるかにレベルが高くすばらしい。しかし、分からない人からするとただ何もしない人に見えてしまうのが欠点ですね。

人間って自分より賢くない人のことは(共感するということではなく)分かるけど、自分より賢い人のことは理解することができないから。たまに人を馬鹿にしている人の話を聞いていると、この人の方がバカで理解できてないのねって気づくことが多々あります。そもそも他人の意見を理解する気がない人も多いですからね。

昔はけっこういたのにね。学ばせてくれる人。管理する教育になってから絶滅危惧種になってしまった。絶滅危惧種って保護されるのに学ぶことを教える人は否定されて消されていくから日本ってほんと伸びないね。

20年ほど前はHRは各担任が独自で企画運営していたので全クラス違う内容のことをしていてもおかしくなかったのに、現在では独自でHRの内容を決めることができずに他のクラスを真似るばかりで全クラス同じ内容ばかりなんてことも多々あるみたいです。教員の中にはあのクラスだけ違うことしてるなんて怒る人もいますが、独自で運営できない能力の低さを問題だと思わない人はそんなものなんだと思います。失敗しても良いから独自で運営しないといつまで経っても成長しないじゃんと思いますが、これが現状なのかなという諦めも少し入っています。なんといっても企画ができない担任に当たるとHRは自習か面談。ほんと恥ずかしい。ちなみに面談って一人の生徒と話をするために他の生徒を放置しておくってことだから、なぜ別の時間にやらないのかと疑問に思います。担任がHRで自習か面談、またはどっかのクラスといつも同じだったら残念だなと思ってください。

学ぶという行為には体験が伴うので、実体験を重ねられると学びたくなりますね。近くの小学校で蛍の鑑賞会がありました。実際に見てみるとなんで光るんだろうとか、蛍の姿や能力に興味がわきますね。ここで自分で調べてみようになれば学びの成功だと思います。算数で言うと、3+2を5と答えられるより、友達が3人遊んでいて、後から2人がやってきました、さて何人になったでしょうが答えられることが大事ってこと。意味合いでは前者が教えで後者が学びですね。

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教えのプロではいけないのか

これけっこう疑問に思いません?学ばなくても教えてもらって点が伸びれば良くないか?って。

これですね。ものすごくまずいのですよ。なぜかと言うと時間をものすごく無駄にするから。教えてもらって本質が少しでも理解できれば良いのですが、点を取るだけの勉強だと理解しないまま点数が伸びてしまいます。

その後どうなるかですが、理解してないことが露呈した時点から苦労し始めます。理解していないことが早い段階で分かればそこから挽回することができますが、これが遅れると挽回する可能性がなくなります。

もう1つは自分の向き不向き、得意不得意を誤解します。好き嫌いですら自信と因果関係にあるので、スタートで間違った方向に進む可能性があるわけですよ。大学の専門を選ぶときや就職で自分の職業を選ぶときに、本当は分かっていないのに自分は大丈夫だと誤解したまま進むのって良いと思いますか。

大事なことは何かというと、点数が取れることではなく、分かっていることと分かっていないことが分かること。できることとできないことを知っていること。自分の向き不向き、得意不得意、好き嫌いを客観的に判断できることです。

引退したサッカー選手で川口能活がジュビロ時代に連敗して言った言葉で、「間違ったことをしているときは負けた方が良い。これで勝ってしまうと間違ったことを続けてしまうから」と言っていました。(ちょっとセリフが違うかもしれないけど、内容はそういうことです。)間違ったことをしているときは結果が出ない方が正しい方向に修正するって意味で大事な言葉だなって思います。

学習に関しても点数や偏差値という数字だけにとらわれず、本来の自分の力や正しい学習にこだわった方が良いですね。

例えば現在のセンター試験は所詮マーク式なんです。問題を解くのではなく答えの選び方を勉強してしまっては意味がないですよね。そういった答えの出し方を教わるのではなく、途中の過程を大事にした教わり方をしてもらえたら方が良いと思ってください。

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錯覚しないために

なんでこんなことになってしまったかと言うと、目的と手段の区別ができない人が多いからです。

安定した生活のために一流企業に入りたい。前者が目的、後者が手段。

〇〇を学びたいから△△大学の□□学部に入学する。前者が目的、後者が手段。

とにかく国公立大学に入学!←手段が目的に変わった考え方。

20年ほど前までなら、レベルの高い大学に入学して、有名企業に入社して生涯そこで働くという構図があったのでしょう。しかし、レベルの高い大学に入るには自分のレベルを上げることが求められるのに、どうやったら多少レベルが低くても受かるかになっていったところが問題です。

何のために行くのかであって、どうやったら入れるかではないよと言うことです。何のために行くのかを考えずにどうやったら入れるかばかり考えていてはいざ入学してから困りますよ。

錯覚しないために必要なことは何のためにと問いかけることです。

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