プロローグ
今年の桜まつりは大いに賑わっている。長らく改修工事のため入れなかった天守閣に入れるようになって初めての桜祭りだ。
今日は入場口で待ち合わせしている。彼が来るのを待つ。
彼を待つ日が来ると思わなかった。
何年も時を経てこの日がやってきたのだ。
出会い
彼女との出会いは職場であった。私が彼女を教える立場であったが、彼女一人を育てているわけではなかった。彼女は熱心にいろんなことを聞きに来た。もともと俺はお調子者で冗談を混ぜて笑わせていた。そういったところを気に入ってもらえたのかもしれない。相談事には親身になって対応した。キャリアの考え方やスキルの伸ばし方や選び方、教えられることは何でも教えた。頼られることが嬉しかったし、彼女の可愛い横顔を見るのが当時の癒しだった。
社内イベントの時には仕事から離れて世間話をした。彼女には彼氏がいたが、彼氏の話はあまりしたがらなかったが時々恋愛相談に乗っていた。この日も少しだけ彼氏の話を聞いた。プログラムをふたりで眺めているときに胸があたりそうなギリギリに寄ってくるのでドキドキした。このまま少し彼女に寄れば胸が腕に当たる。わざとするわけにはいかないので、彼女がもう少し近づいてくれないか期待したが願い叶わず。みんなから離れてふたりでいるとこを社内の記録係に写真に撮られて揶揄われた。お互い別の相手がいるのだが、互いに好意を抱いているのは明白だった。ただ、どこまで近づいていいものか迷っていった。
時間の流れは速く、出会いと別れがあるのが世の常だ。彼女が別の場所に移動になることが決まった。これで会えなくなるのかと残念に思っていたが、自分から会いたいと言うのも気が引けて、最後に別れの挨拶をするのみとなった。彼女から挨拶に来てくれた。いろいろお世話になったと言いに来てくれたのだが、このまま会えなくなるのは寂しいと連絡先を教えてくれた。そう、今までプライベートで会うことなど想像もしていなかっただけに連絡先も知らなかったのだ。彼女は小さな紙切れにメールアドレスを書いてきてくれていた。周りの同僚に気づかれないように日程を確認し、会う日だけを決め、後はメールでと言って別れた。平静を装っていたが、嬉しさを隠すのに苦労した。
帰宅して早速メールした。どこへ行くとかちょっとしたやり取りが楽しくてしょうがなかった。会う日が待ち遠しく、仕事どころではなかったが最低限の仕事はしていたと思う。気分が乗っているときはそんなものだ。
そして待ち合わせの日がやってきた。
密会
彼が駅まで迎えに来てくれた、今日は白のワンピースを着ている。これが一番可愛く見えると思っている。出かける前に彼の家による予定だ。私は思い悩んでいた。お互い別の相手がいる中で会いたいと思う感情はいいのだろうか。会っても良いのだろうか。彼にはお世話になったからそのお礼がしたいだけと自分に言い聞かせていた。そう言い聞かせながら、お礼だけなら品を渡すだけで済む話だし、会えないと寂しくなってしまうとはっきり言ってしまった。それが本心であることもまた事実だ。
お出かけには少し早いということで彼の家で少しおしゃべりをした。彼の家に行くことは嫌とは思わなかった。部屋でふたりで会うことにも抵抗はなかった。ただ迷いがあった。彼の気持ちを推し量る部分もあった。時間を潰すだけなら外で良い気がする。敢えて家に呼ぶ意味はなんだろうと。期待も不安もあった。
彼の家に着いて手土産を渡した。ちょっとばかり奮発したお菓子だ。彼は手際よくお茶を入れ出してくれる。とりとめもない話をしているなかで彼のことを何度も好きと言っていた。途中から彼氏の話を始め、手もつながないしキスもしないと半分相談なのかそんな話をしているとき私は失敗をした。失敗なのか成功なのかは分からない。彼の目を見て、「好きならキスするよね?」と聞いてしまった。お互い好意を持っている、お互い別の相手がいる、それでも部屋でふたりきり、好きの重みは別として好きと言っている、最後の一言が彼のスイッチを押してしまった。彼が私の髪に触れながら頬を通過し頭の後ろに手をまわす。お互い目を見たまま彼の顔が近づいてくる。唇が触れる直前に間があった。彼なりのモーションだった。
一度だけ彼の剣舞を見に行ったことがある。彼はひとりで舞うのだが、群舞を見た時に吟に合わせてぴたりと動くことに驚いた。良く練習しているなと見ていると、一番前に合わせて動くから、経験が少ないと一番前の方が楽と教えてくれた。うっかり自分が後ろになるとモーションをかけてもらうのだと。一番前の人が右足を横に滑らせたときに一瞬間を作ってもらい、左足を踏むタイミングを合わせるのだと言っていた。
今日の彼のモーションは私に断るタイミングを作ってくれたものだ。このタイミングでならダメだよって優しく諭すこともできる。彼の最終確認でもあった。私は彼を受け入れた。思ったより彼のキスは長かった。もっと触れてほしいと思った。今日はワンピースだ。裾をまくれば簡単に脱がすこともできる。ここから先は私が先導することはできなかった。私に触れてほしい。彼はどう思ったのだろう。先を望んだのか、それとも後悔しているのか。
もう一度キスした彼はそろそろ行こうかと言って身支度を始めた。キスしてから会話が続かなかった。お互い迷いがあったことは間違いない。お互いに別の相手がいなければ間違いなく今日結ばれていたはずのふたりなのだ。
不安定なふたり
再び彼女を車に乗せ走りはじめた。淡墨桜を見に。一本道の国道を樽見鉄道沿いに走る。気まずくなった雰囲気を変えたくていろんな話をした。車が通る地域の名産や子供のころにきたときの失敗話など。お互い気を使ってか、微妙な雰囲気が残ったまま。このドライブの最中にお互いがいろんなことを考えている。
花見に着いたときは日が落ちていた。夜桜だ。提灯の明かりがお祭りの雰囲気を出している。個人的に花見に着くまでのこの坂道が好きだ。樽見駅から淡墨公園までの道のりはやや長いが風情を感じる。ひとりで浸っていると、会話が弾まなくても桜を愛でたり景色を眺めることで自分たちが溶け込んでいくような気がした。
樹齢1500年以上の桜は圧巻だった。大きさにも歴史にも、自分たちが見ることがない過去をすべて眺めてきたと言わんばかりの堂々とした態度に圧された。彼女が風に舞った花びらを掌に乗せた。その姿が妙に目に焼き付いて、今後桜を見るたびに自分の掌に花びらを乗せる習慣ができてしまった。彼女が桜を写真に収めるときに花をアップで撮っているのを見て、自分との違いを感じた。桜を撮るときは引いて全体を映してしまう。これが男女の差なのか、個人の差なのか。
屋台で何か食べようと提案したが、食欲がないと言われ自分だけ頬張るのも気が引けたので、結局飲み物だけ買って岐路に着いた。今日は失敗だったのだろうか。これで最後のお別れになってしまうのだろうか。帰りの車でまた会えるかと聞いてたぶん会えると答えてもらったが、半信半疑だった。会えたら嬉しい。次も会いたい。自分から誘うこともできなかったのに、一度会ってしまうとまた会いたいという思いが止まらなくなってしまう。家まで送ると言ったが、駅まででいいという彼女に従い駅でお別れした。これが最後にならないようにと願いながら彼女を降ろした。駅に向かう途中、振り返り手を振ってくれたことに安堵した。
それから数日メールでのやり取りが続いた。とくに素っ気ない感じはしなかったし、メールが来るのが待ち遠しかった。何週間か過ぎて、また会いたいと送ってからなかなか返信が来なかった。少し日にちが経って送られてきたメールは長かった。それは私の失恋を意味するものだった。この日、年甲斐もなく失恋に動揺した私は仕事を早退して家で寝込んだ。失恋でご飯が喉を通らない経験をするとは思ってもみなかった。人生初の経験だった。
本音
私は彼を好きになった。お互い別の相手がいるにも関わらず。好きになった気持ちは変えられない。人には自分の意思で変えられるものと自分ではどうすることもできないものがある。好きと言う気持ちは変えられない。会うかどうかは自分で決められる。彼といると居心地が良かった。なにより楽しかった。私は会えなくなると思ったときに寂しくて彼に会いたいと言った。彼の家にいくときも後ろめたさはあったが、行きたいと思った。何より、「好きならキスするよね?」と言ったあの時、思い浮かんだのは彼だった。付き合っていた彼氏ではなく、彼だった。彼のモーションに私はタイミングを合わせた。もっと触れてほしいと先を望んでいたのは私の方だ。
私は私にけじめをつけた。あの日からメールでやり取りする毎日が楽しく後ろめたいものだった。この幸せな不快感をどうにかしたかった。不快なものだけを取り除きたかった。彼から会いたいとメールが来た時に決めなければいけなかった。このままではいけない。そして私も彼に会いたい。だから私は彼にお別れのメールを送った。もう会えないと。彼氏にもメールを送った。別れようと。これが私が出した結論だ。彼氏には悪いことをした。好きになった気持ちは止められない。彼にも別の相手がいる。私はひとりになった。
エピローグ
彼からの連絡はここ最近の出来事だ。私が別れたことを知った彼は自分も別れたらしい。たまたま別れたからよりを戻そうと思ったのではなく、私が別れた気持ちを汲み取って自分も別れたとのことだった。その割には長く連絡してこなかったのは機会がなかったからだと。よくよく考えてみれば接点がないふたりに連絡する機会などあるはずもない。お互い忘れられない相手であることは確かだ。無理やり機会を演出したのが今回の桜祭りだ。もう一度ふたりで桜を見に行こうと誘ってきた。このときお互い相手がいないことを確認した。
改築された天守閣を遠目で見ながら彼を待った。不思議なものだ。お互い別の相手がいる中で恋に落ち、何年も時間をかけて今日もふたりで会う。好きになり忘れられない相手とはそういうものなのかもしれない。特にお互いが同じ気持ちであれば。
今日は屋台で何を食べようかなぁ。何年か前に食べられなかった屋台を思い出して、まずは空腹を想像で満たしてみた。
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